やすら樹 NO.78

医療と内観 ―第12回―

   継続は力なり

 部屋の後片づけを思い立ち掃除していたところ、北陸内観懇話会編による「内観日めくり:吉本伊信の言葉」が箱の中から出てきました。パラパラとめくっていると、「集中内観は基礎訓練、日常内観こそ本番なのです」のページで手が止まりました。過去の思い出が、鮮明にほろ苦く浮かんできました。奈良大和郡山にある内観研修所で集中内観を終え、これから日常内観をしっかりやるんだと自分に言い聞かせながら電車に乗った当時の自分が。


 病院でアルコ-ル依存症(以下ア症)の治療に携わっていると、「継続は力なり」という言葉を私はよく使います。ア症者が酒の魔力を断ち、新しい生き方をするためには断酒の三本柱が必要です。この三本柱とは、「病院への通院、抗酒剤の服用、自助グループへの参加」という三項目で、その実行と継続が断酒に欠かせないのです。ア症者が、退院後にいくら有能な仕事をしても立派な行いをしても飲酒してしまえば元の木阿弥となって再入院になるため、継続は力なりというフレーズに力が入ってしまいます。私の勤務している病院では、ア症の治療に内観療法を導入しているので、日常内観を加えて断酒の四本柱を勧める場合もあります。


 この「継続は力なり」という言葉を考えてみますと、よく似た言い方が多数あることに気づきます。「人生に奇跡はない 積み重ねあるのみである」、「続けることは始めることより難しい」、「苦節十年、一年不断の継続」などや、「敢行し、貫行し、慣行となり歓行となる」などです。継続の難しさがあるからこそ、古来からいろいろな言い方がされてきたのでしょう。


 一般にこの言い方は、継続という行為そのものが重用である意味にとられています。ですから、断酒継続のみでなく、勉強やスポーツ、習い事などで、継続してはじめて自分の血となり肉となる時に使います。つまり、ある行為を続ける事自体に意味があって、途中でやめてしまえば意味が失われやすい事になります。吉本伊信は、「集中内観を電柱にたとえれば、日常内観は電線のようなものです」とも言っており、日常内観を継続して柱になった電線を電気が伝わり、家庭に明かりが灯るのです。
 一方、初めは小さな行いでも、継続し続ける事により輝かしい成果になるという意味も含まれています。「軒の雨だれ石をうがつ」は、まさに言い得たことわざでしょう。お隣の朝鮮でも、「石を貫く矢はなくとも石をうがつしたたりはある」との類句もあります。一日断酒や例会参加は、そのひとつひとつは雨だれのしずくのように小さな力でも、やがて硬い石に穴をあけることができるように、大きな幸福を手に入れる事になるのです。内観に目を転じれば、日常内観は小さな行いでも、続けることにより「内観は魂の大手術です」と吉本伊信が述べた結果を初めて生むのです。さらにことわざにあるように、集中内観の始めが敢行で、日常内観をし続けて歓行となれば素晴らしいですね。


 しかし、いくら継続は力であっても、飲むことを継続したり、内観でなくて外観をしては実りはありません。人は限られた時間の中で、真に自分がなすべき大事を見つけ出し、それを一歩一歩確実にやりとげるということが「継続は力なり」と思うのです。


 最後に、私に日常内観継続は「言うは易く行うは難し」がぴったりです。八年前より家庭内での飲酒をしていない事ぐらいが継続に当てはまりますが、力になっているか少々疑問です。