やすら樹 NO.67

医療と内観 ―第1回―

 体と心は一つ

 突然、運動をしている時のような頻脈と脈の乱れる不整脈に襲われたのは、昭和62年のとある秋のことである。頭によぎったのは、死という字と残されるかもしれない5人の子供と妻のことである。あわてて妻に生命保険額を聞いたことが今でも鮮明に覚えている。その頃、富山市民病院精神科部長に就任し、心身ともに多忙を極めていた時期である。特に、新任の研修医が巻き起こす患者トラブルとその後始末に心を痛めていた。私には、過大なストレスにさらされている中で起きた出来事である。


 一般に、人が外から受けたいろいろな刺激に対する心と体のひずみをストレス状態とかストレスと言い、その刺激もストレス(正式にはストレッサー)と称されている。このストレスがいろいろな病気を招くことは良く知られた事実である。ストレスは精神機能に影響を及ぼすと神経症やうつ病となる。一方、体を内や外からの刺激から防御している神経系や内分泌系、免疫系のネットワークに、ストレスが作用した時に症状として現れることもある。その場合、心身症と呼ばれ、高血圧症や十二指腸潰瘍などが良く知られている。私の場合は長く続いた心の葛藤下、つまり上司としての力量の足りなさや、教えてもざるに水を注ぐかのように繰り返される問題の出現によって、ついには頻脈、不整脈という身体症状として出現したと考えられる。このようにストレスによる心の痛みは、「病は気から」と言われているように頻脈、不整脈として現れたり、胃の痛みや頭痛として経験することも珍しくない。さらにストレス誘発性の身体の病気から心の病気に発展することもある。


 ストレスは人に作用し心や体に各種の病状や病気を招くが、現代医学は心と体を分けて対応するのが一般的である。このような考え方は歴史的には新しく、デカルトによって心身二分論が唱えられてからである。この考え方によって、身体面からの病気の研究は目覚ましく発展し、ついには遺伝子操作も人類の技術として獲得した。クローン人間も技術的に可能となり、テクノロジーの暴走が心配な時代となってきている。生命倫理という言葉も耳新しくなくなっている。ギリシャ時代の医師ヒポクラテスは、病んでいる患者に対して単に器官やや臓器の障害として部分的に診るのではなく、心理面や生活環境まで配慮した上で病んでいる「人間全体」として治療することを唱えている。中国医学や日本の漢方医学は、現代西洋医学と異なった心と体を区別せずに心身一如という考えで治療してきている。


 内観療法は身体治療を目的としていない。しかし、過去にクローン病やパーキンソン氏病などの難病の改善やガン患者の延命などが報告されている。そこまでいかなくても、集中内観前の便秘や下痢、肩こりなどの体調不良が内観後に嘘のように良くなる事実を見聞きする。内観は深く自分をみつめ自分を知る技法であるが、その結果として人としての生き方が変わる。内観療法は精神療法であるが「人間全体」に強烈に作用している。身体の病気が良くなることもうなづける。しかし内観をすれば病気はなんでも治るということを意味していない。


 私に認めた頻脈と不整脈は自分なりのストレス・マネジメントにより消失した。私が死をも考えた頃、内観との出会いがない時期であり、知っておれば躊躇なく内観を体験したであろう。自らの体験や日々の治療経験から、「体と心は一つ」を実感しているこの頃である。​